諏訪湖周辺の歴史を感じるスポット

諏訪湖畔上諏訪温泉の宿・ラルバ諏訪湖

諏訪湖で歴史を感じよう

ここでは、普段訪れることの少ない、歴史を感じる諏訪湖周辺のスポットをご紹介します。

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諏訪湖周辺の城址

地図上に場所を落としてありますが、あくまでも参考程度にしてください。

大熊城址

大熊城址

大熊城址は、その昔の大熊城の跡地で今は城郭の名残が残るのみとなっています。
現地には諏訪市教育委員会設置の案内板があり、城郭の上や土塁に祠があるのみとなっています。
(残念ながら、中央自動車道に城址が分断されてしまい、今では一部が現存しているのみとなっています。)
実はこの場所、時期になると福寿草が美しく(2月下旬~3月上旬)、また八ヶ岳の絶好のビューポイントでもあります。
ちょうど撮影しに行ったときは空気が霞んでいてはっきりくっきりとは映っていないのが残念です・・・
諏訪湖・八ヶ岳が一望にできることから、杖突峠方面への要所を守る箇所であったと想像を巡らせます。

【現地案内版より】

大熊城は千野氏居城と伝えられ、文献上では文明15年(1483)にその名がみられる。
諏訪神社上社大祝(おおほうり)側に属する山城で、当時対立していた下社大祝金刺氏との攻防の場となった。
天文11年(1542)武田信玄の侵攻によって落城し、天文17年頃破却された。
城は三日月形をした自然丘陵上に主郭を築き、周囲に6ヶ所の郭(曲輪)を配置したいわゆる連郭式城郭である。
主郭の南端には長さ20mの土塁があり、その上には千野氏の名を刻んだ石祠が建っている。
昭和48年に行なわれた発掘調査では堀・建物跡・土橋が発見され、築城の様子が明らかになった。
また大熊城に隣接する城山遺跡・荒神山遺跡からは城主の居館跡とみられる建物跡も発見された。

大熊城址の地図
■大熊城址の詳しい地図を見る■ 大熊城址の福寿草
(福寿草と諏訪湖)

有賀城址

有賀城址

諏訪湖から伊那方面へ有賀峠を目指して行くと、有賀城址があります。
昔の諏訪と伊那を結ぶ交通の要所だったこの地にあり、現在でも建物は現存しないものの、その遺構の保存状態は良好です。
木々の間から見る諏訪湖もまたおすすめです。

【現地案内版より】

有賀城址は古代より諏訪と伊那谷を結ぶ交通の要所であった有賀峠の登り口に位置する。
確実な記録がないため、築城年代は不明であるが、諏訪氏の支族である有賀氏が鎌倉時代初期の承久年間(1219~1222)に当地に入り、その後に築かれた山城であると考えられる。
戦国時代に入り、諏訪氏を滅ぼした武田氏の支配が当地域に及んだ天文17年(1548年)に有賀氏ら西方衆は武田信玄と争うが敗退し、追放された。
有賀城には武田方の原美濃守が入城し、しばらく後に武田方に協力した千野氏へと支配が移された。
そして関ヶ原の役後の慶長6年(1601年)再興した諏訪氏の再入部にあたり、千野丹波守房清が入城している。
江音寺付近にみられる「丹波屋敷」の地名はこれにちなんだものと言われている。
現在曲輪や尾根を遮断する堀切、斜面にのびる竪堀など、中世に築かれた防御的施設が非常に良好に残っている。
標高925mの尾根頂部にある主郭(近世城郭の本丸にあたる)は東西約20m、南北約37mの規模で、東側に虎口(出入口)が見られる。
南側には高さが5mに達する土塁があり、このような大規模の土塁がある山城は諏訪地方では珍しい。 また、主郭から北方にのびる尾根上には土塁を持った曲輪が階段状に築かれている。
これらの曲輪は戦時に城兵がこもる場所で主郭背後を執拗に遮断する堀切や山麓までのびる複数の長大な竪堀は曲輪や斜面を防御するためにつくったものである。
有賀城では斜面に多くつくられた竪堀が最も特徴的な遺構である。
このように防御的施設が発達した有賀城址は、戦闘が激しくなった戦国時代末期に改修された姿であると考えられる。

有賀城址の地図
■有賀城址の詳しい地図を見る■ 有賀城址からの諏訪湖
(有賀城址からの諏訪湖)

桑原城址

桑原城址

桑原城址は、山城であり今では城郭址のみとなっています。
諏訪から霧ケ峰へ向かう道路から山道を登ること約500mです。
車で行くこともできますが、主要道路から約500mは急坂の砂利道となり、車高の低い車だと底がする可能性があります。
突き当たりに車をとめて、さらに10分ほど歩くと桑原城址に到着です。
ここからの諏訪湖の景色もおすすめです。
晴れて空気の澄んだ日には、遠くに北アルプスも望むことができます。
戦国大名の諏訪氏滅亡の舞台と図らずもなってしまった場所です。

【現地案内版より】

桑原城は、戦国時代の山城であり、諏訪惣領家の本拠である上原城(茅野市)の支城の役割を担った重要な場所でした。
天文4年(1535年)には惣領家の諏訪頼満と甲斐国守護の武田信虎が諏訪社の宝鈴を鳴らして和睦、信虎の娘禰々が頼満の孫頼重に輿入れ市、諏訪・武田両家は同盟関係を結んでいました。
その関係が崩れたのは、惣領を継いだ諏訪頼重が天文10年(1541年)に関東管領上杉憲政と単独で講和を結んだことに対する報復か、翌天文11年(1542年)、父信虎を追放した武田晴信(のちの信玄)が諏訪に攻め入ったことによります。
上社神長の記録「守矢頼真書留」によれば、そのころ諏訪では災害や飢饉、対小笠原氏や佐久方面での戦が続き、民衆が疲れ果てていたため、高遠頼継らと結んだ武田勢を迎え撃つ勢力には差が歴然としていたといいますが、頼重は奇襲策を嫌い、正々堂々と戦おうとしていました。
7月2日夜、劣勢のまま居城である上原に火をかけて桑原城へ退却、3日の夕方には、戦闘に備えるために検分をしようと「つるね」(足長神社へ続く尾根か)を下った頼重を見た家臣が、頼重が城を捨てたと思い逃げて行ってしまったため、20人ほどで夜を明かし、4日、甲州勢の使者を受け入れ城を明け渡すことにしました。
その後、頼重は甲府へ連行され、東光寺で自刃しました。
このように桑原城は、諏訪惣領家最後の舞台となりました。

【関連する歴史スポット】

・上原城址
・頼重院

桑原城址の地図
■桑原城址の詳しい地図を見る■ 桑原城址からの諏訪湖
(桑原城址からの諏訪湖)

上原城址

上原城址

諏訪地方を治めた諏訪氏の五代七十余年にわたっての居城。
諏訪氏滅亡のあと、武田氏が信濃支配の拠点とするも、天正十年に廃城となり現在は、主郭、土塁、二の郭などの遺構が残っています。

【現地案内版より】

上原城址は、諏訪盆地を一望する金毘羅山(標高978m)にある。
その遺構としては主郭・土塁・二の郭・三の郭・曲輪・空堀・物見石等があり、上原城の中腹の小字板垣平には居館跡がある。
この城は、北は永平寺山を背に、北西に桑原城、東に鬼場城等をひかえ、前方南には上川や宮川を隔てて干沢城に対し、諏訪大社上社(本宮・前宮)を見下した中世の典型的な山城である。
築城の年代は明らかではないが、室町時代の後期、文正元年(1466)頃より、諏訪総領家当主信満がこの城の中腹に居を構え、上原郷に城下町を作った。
その後、諏訪氏は信満-政満-頼隆-頼重の5代70余年に渡り諏訪地方を統治したが、天文11年(1542)7月、甲斐の武田晴信(武田信玄)によって滅ぼされ、諏訪総領家は滅亡した。

【関連する歴史スポット】

・桑原城址
・頼岳寺

上原城址の地図
■上原城址の詳しい地図を見る■ 上原城址からの眺め
(上原城址からの眺め)

諏訪の土地神さま

諏訪大社の神様がいらっしゃるよりも前から、諏訪に住んでいるご夫婦の神様がいらっしゃいます。
「足長さま」と「手長さま」です。

足長神社

足長神社

足長神社は桑原城跡の山腹に鎮座しています。
境内は古松・老杉に囲まれ、諏訪湖とその周辺を樹間に眺望できる秀景の地。
祭神は足摩乳神で、諏訪上社の末社の一つとして、また、上桑原郷の産土神として古くから崇敬されてきました。
社記によれば、当社は初め足長・手長の両神を合祭し(手長の神はのちに下桑郷(現上諏訪)に分祭)、荻をもって社宇の屋上を葺いたことがら「荻の宮」とも呼ばれたといいます。
社記の由緒の項には、大同年間、諏訪神社大祝有員(上社大祝の始祖)が当社を崇敬し、広大な社殿を建築して自らも近接地に居住したため、その地を御曾儀平(みそぎだいら)と呼ぴ、有員の廟墓もあると記されています。
口頭伝承によれば、足長神は手長神を背負って諏訪湖で貝や魚をとったといい、また大きな長いわらじを奉納すれば足長神が旅の安全を守ってくれるといい、かつて人々は当社にわらじを奉納して旅の安全を祈りました。
なお、江戸時代、地元の上桑原村では、諏訪上社の御柱祭に「高島藩家老騎馬行列」を奉納していたが、明治4年の廃藩後は足長神社に奉納するようになり、今日に至っています。

足長神社の御祭神は足摩乳命(あしなづちのみこと=足長さま)で、男性の神様である、ということは連れ合いの女性の神様は誰?ということになろうかと思いますけれど、ちゃんといらっしゃいます。
「手長神社」の御祭神は手摩乳命(てなづちのみこと=手長さま)。
手長さまは異常に手が長く、足長さまはその反対に足が長いと・・・そのお姿はちょっと変わっています。
その風貌とは反対に、奇稲田姫を手撫で足撫でしていつくしみ養育された優しい神様です。
諏訪大明神が諏訪に入諏するよりもっと以前からこの諏訪の桑原郷に住み、足長神が手長神をおんぶして諏訪湖で魚や貝を採っていたとも伝えられています。

手長神社

手長神社

境内近傍で、旧石器時代および古墳時代の複合遺跡「手長丘遺跡」が発掘されまた境内上方からは、茶臼山古墳群が発見されています。
眼下に諏訪湖が開け、背後に霧が峰を擁し、湖と山の幸に恵まれた景勝の地は、遠古より人の住まう土地であり、古くから神が祀られており、今に手長神社と称しています。 下桑原の鎮守さまです。(手長神社しおりより)
御祭神:手摩乳命(てなづちのみこと)諏訪大明神(建御名方命・たけみなかたのみこと)の曽祖母、奇稲田姫の母神です。

JR上諏訪駅から徒歩で約10分ほどで入口に到着します。
手水舎を見ると、ほのかに湯気が立っています。
そう、諏訪に豊富な温泉になっているのですね。
御祭神は手摩乳命(てなづちのみこと)で、女性の神様です。
高島城のうしとら(東北=鬼門)に位置することから、諏訪藩家中の総鎮守として崇拝を集めました。
根性入れて石段を200段以上上ると、さらに先にも階段があったりしますが、その先に待っている拝殿の彫刻は上り竜・下り竜・唐獅子など豪華なもので一見の価値ありです。

歴史を感じるお寺

法華寺

法華寺

法華寺は、諏訪大社上社のすぐそばに佇んでいます。
立ち寄られる方は少ないものの、実は「赤穂浪士」の事件や「本能寺の変」にもかかわる舞台となった場所。
諏訪大社上社に参拝の折には、ぜひ訪れてみたい場所のひとつです。

天正10年(1582年)、高遠城を落とした織田軍勢はそのまま北上し諏訪大社上社本宮を焼き討ち、類焼を免れた法華寺は本陣となり武田家滅亡後の論功行賞が行われました。
その際、織田信長が明智光秀を叱責し、面目を失った光秀が本能寺の変へと導いたとも伝えられています。

元禄15(1702)年12月14日、赤穂浪士大石内蔵助らの吉良邸襲撃によって打たれた吉良上野介義久の養子、左兵衛義周は、高島藩に流罪となり、南之丸で3年を過したが、病弱のため22歳で亡くなりました。
諏訪市中洲の法華寺が遺骸を引き取り墓を建てたものです。

平安時代建立の法華寺は、諏訪大社上社の神宮寺に準ずる地位にあり、織田信長も武田氏征服の途次に滞在、多くの貴重な文化財がありましたが、平成11年に焼失、現在は新しい本堂が建てられています。

温泉寺

温泉寺

「温泉寺」と聞くと、諏訪は温泉だからそれに関係する、例えば温泉を敬うために作った観光目的の施設なのかな・・・と思う方がたくさんいるのですが、そうではありません。
高島藩主諏訪氏の菩提寺という由緒ある寺なのです。
明治3年の火災で堂宇が焼失し、高島城より城門と能舞台が移築され、現在に至ります。

山門(三門)・本堂
明治に入り、温泉寺は火災となり、山門(三門)と本堂が焼けてしまいました。
山門は高島城の薬医門を移築し、本堂には同じく高島城の能舞台を移築しています

梵鐘
梵鐘は天正十年(1582年)織田信忠の軍が伊那郡市田村(現高森町下市田)の安養寺から略奪して、上之諏訪(神宮寺)まで引きずってきて、そこへ捨てていったものを、温泉寺創立にあたって流用したものと言われています。

多宝塔
多宝塔には諏訪上社にあった鉄塔が収められています。
鉄塔といっても2メートルほどの石塔で、元来上社の御神体として崇められてきたものですが、明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の時にこの移されたものです。

高島藩主の廟所
霊廟は、2代目藩主の諏訪忠恒のもの。
温泉寺は、この諏訪忠恒によって創建され、以降高島藩諏訪家の菩提寺となっています。
建立は1657年頃とされており、その後改修はされているとのことです。

和泉式部の墓
日本全国に平安時代中期の歌人、和泉式部の墓がありますが、ここ諏訪にもあります。
式部の伝説を語り物にして歩く京都誓願寺に所属する女性たちが、中世に諸国をくまなくめぐったから、と言われておりますが果たして諏訪の墓はどうなのでしょう・・・
目立たない場所にありますが、看板があります。

頼岳寺

頼岳寺

長野県茅野市にある曹洞宗の寺院です。
江戸時代初期の寛永8年(1631)に、高島藩初代藩主の諏訪頼水を開基として開創されました。
頼水が頼岳寺を建立して、御廟所を移転しました。
御廟は三室に分かれ、中央が頼水の父頼忠(永明寺殿)、向って右が頼忠夫人(理昌院殿)、左は頼水(頼岳寺殿)で、家形の石造一重塔が安置されています。
二代藩主忠恒が、後に城下町諏訪にあらたに菩提寺となる温泉寺を建立したので、以後歴代藩主の墓所は温泉寺に移っています。

頼重院

頼重院

頼重院(らいじゅういん)は諏訪頼重の菩提寺です。
天文11(1542)年7月、諏訪頼重は武田信玄に攻められて桑原城に敗れ、甲府の東光寺で自害しました。
墓は東光寺(甲府市)にありますが、この地に菩提寺として頼重院が建立されました。
小説「武田信玄」の著者新田次郎の「陽炎や頼重の無念ゆらゆらと」と刻まれた歌碑や頼重公の怨念のために大きな石が7つに割れてしまったと言われる巨石もあります。

【現地案内版より】

天文11年(1542年)7月、諏訪頼重は武田信玄に攻められて桑原上に敗れ、甲府において自害した。
墓は東光寺(甲府市)にあるが、この地に菩提寺として頼重院が建立され、境内には宝塔をたてて中に宝篋印塔(ほうきょういんとう)を納めその霊を供養した。
境内にはこのほかにも古い墓碑が多く見られる。

貞松院

貞松院

貞松院は諏訪の市街にあるお寺です。
徳川家康の子松平忠輝のお墓やのかぜの笛、城向き地蔵などがあり、諏訪市の天然記念物のしだれ桜もあったり。
諏訪を歩いて探索するおすすめの場所のひとつです。

松平忠輝
元和4年(1618年)には飛騨国高山藩に、寛永3年(1626年)には信濃国諏訪藩に流され、そして天和3年(1683年)7月3日、幽閉先である諏訪高島城(南の丸)にて死去。

城向き地蔵
早くなくなった三代藩主忠晴の子を供養した地蔵。
両親を想うあまりに、いくら直しても翌朝には一人で城を向いてしまう・・・という地蔵が境内にあります。

乃可勢(のかぜ)の笛
貞松院には「乃可勢」というくずし字の入った「一節切」と呼ばれるたて笛があります。
「乃可勢」は「のかぜ」と読み、わかりやすい感じを当てるとすると「野風」となり、野を吹く風のように高く細く響き渡る音を表現している名前、とも言われています。
節の上に金泥で家紋が施されていますが、これは「織田木瓜(もっこう)紋」と呼ばれる、織田信長が使用した紋。
収納箱には、徳川家・松平家の家紋である葵紋とともに「織田信長自愛 のかせ 御笛」と書かれています。
元々織田信長が愛用していたものを、信長が豊臣秀吉に譲り、秀吉が徳川家康に譲り、家康が側室である茶阿の方の求めに応じて息子の松平忠輝に譲ったものだと言われ、バトンのように(?)伝えられた名品です。